月の“幼い声”を考える① 囚われたとき

以前、マドモアゼル愛先生の月の“欠損”について考察した記事を書きました。
→ [月の欠損とは何か─刷り込まれた幻をほどくために(過去記事リンク)]
あれから、少し時間が経った今も、この記事を訪れてくださる方がいて─このテーマに関心を寄せている方が多いのだなと感じています。
その記事では、月を“欠損”ではなく、“無意識に翻弄されやすい場所”としました。
ただ、それだけでは、「月が与えるものは見せかけと虚構。人が生きる目的は太陽を獲得することである」という言葉の意味が、感覚的に少し掴みにくいかもしれない─そんな思いもありました。
ところが最近、「月の“幼い声”を太陽のエネルギーで叶えていく」という記事を書いたときに、
「あれ?この“幼い声”という視点を使えば、あの言葉の意味がもっとわかりやすく説明できるのでは?」とふと閃いたのです。

そういうわけで、今日は、この“幼い声”という視点を使って、
「なぜ、人が生きる目的は太陽を獲得することなのか」──その意味を、少しずつ紐解いていきたいと思います。

1.月の“幼い声”とは

月は0〜7歳の年齢域を象徴し、まだ言葉にならないまま、でも確かにそこにあった「感じていたこと」「求めていたもの」をそっと映し出しています。
それは、たとえば「さみしい」「見てほしい」「安心したい」といった、幼いころの記憶に根ざした“ちいさな声”かもしれません。
その声の奥には、人が「生きている」と実感するために必要な、もっと深い欲求──安心感やつながり、共感、自己保存のようなものが、静かに息づいているのです。
こうした声は、私たちの中に今もあって、ふとした瞬間に顔を出します。
そして、その声に囚われてしまうと──いつの間にか、底知れない欲求の闇に飲み込まれてしまうこともあるのです。

2.物語に見る“幼い声”:カオナシの暴走

たとえば、映画『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシ。
はじめは大人しく、千尋に懐いているようにも見えました。
けれど、千尋に拒絶されたことで、「受け入れてほしい」「満たされたい」という欲求が暴走し、醜い姿となって、油屋の従業員や大量の食べ物を次々と飲み込んでしまいます。
そんなカオナシの姿は、幼い声に囚われたときに起こることを、視覚的にわかりやすく教えてくれているようにも思います。

3.“幼い声”に囚われたとき、どんなふうに暴走してしまうのか

幼い声に囚われたとき、人は「もっと欲しい」「もっと満たされたい」──そんな思いに囚われて、暴走してしまうことがあります。
それは、さながら、底のない花瓶に水を注ぎつづけるようなもの。
そうなった時に陥りやすい“落とし穴”を、いくつかのパターンで整理してみました。
次回の記事では、月サイン別の“幼い声”を一覧でご紹介します。

ご自身の月サインを確認しながら、内側にある“ちいさな声”を感じてみてくださいね。

(続きます → 🌌「月の“幼い声”を考える②──あなたの中のちいさな声

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